校章・学歌・学生歌

校章・コミュニケーションマーク

校章

1952(昭和27)年10月13日、講堂で入魂式が厳かに行われ、北海学園大学校旗が正式に制定されました。
校旗の図柄には、色階では上位とされる紫紺を用い、中央には北辰を意味する☆を配し、きちんとして正しいこと、正しく厳かな事を意味する「方正端厳」を考慮しました。

コミュニケーションマーク

2018(平成30)年5月30日、北海学園大学のコミュニケーションマークは、「学内または学外でコミュニケーションを誘発するマーク」という位置づけで誕生しました。また、マークを構成する要素には、建学の精神や本学が位置する北海道という土地の個性が詰め込まれています。
このマークには原則、使用ルールがありません。
大きさや色を変えるなど、アイディアと創造性を生かし、自由に使用してください。
皆さんとマークが積極的に関わり、コミュニケーションを通して様々な場面で活用されることで、そのときはじめて「変容し進み続ける北海学園大学」が表現されます。
規則や決まりに留まらず、このマークが北海学園大学とともに育つことを願っています。
詳細については、以下「HOKKAI-GAKUEN UNIVERSITY Communication Mark Visual Manual」をご覧ください。

学歌・学生歌

学歌

学歌を聴く再生停止

作詞 三森 定男(北海学園大学教授)
作曲 大築 邦雄(音楽家・作曲家)

学歌誕生

1958年、北海学園大学の学歌が補導部の手で作成され誕生しました。作詞は三森定男教授、作曲は横浜国立大学の大築邦雄講師で、同年3月の卒業式会場においてグリークラブの合唱によって披露されました。

学歌誕生秘話

開学間もない1952(昭和27)年に、バレーボール部が大学選手権北海道大会で優勝しました。この大会で負けた他の大学が校歌を斉唱して選手を激励している光景を見た本学の学生は、大学の存在を広くアピールし、同時に北海学園大学で学ぶ者たちに誇りと鼓舞をもたらすものとして校歌の必要性を強く痛感するという出来事がありました。その後学生たちは大学当局に校歌の作成を要請し、この申し出を受けて当時の学生部及び補導部委員会は教授会で審議した結果、校歌の作詞・作曲を広く学内に募ることになりました。学生・教職員からは多くの作品が出されましたが、最終的に採用されたのは1954(昭和29)年4月から1957(昭和32)年8月まで補導部長を務めた三森定男教授による青年が未来に向けていく意志の強さを表現している詞でした。(「北海学園大学新聞〔25号・1957年6月25日〕」に「待望の校歌歌詞出来る 補導部作製で」との記事で経緯と決定した歌詞を掲載している。)作曲は、学生や教職員から譜面が出なかったのでやむを得ず外部に求めることになり、三森定男教授が当時「考古学研究会」で交流のあった大築邦雄氏(横浜国立大学教授、音楽史・作曲家、オーケストラで指揮活動をした)に依頼したところ快諾をいただき、校歌『学歌』が誕生しました。この『学歌』披露は、1959(昭和34)年3月16日の昭和33年度卒業式会場で、本学のグリークラブにより歌われたと記録されている。

学生歌

学生歌を聴く再生停止

作詞 吉本 直之(経済学部第3期卒業)
作曲 横沢  寛(経済学部第4期卒業)

学生歌誕生

学生歌の誕生は、1952(27)年、4年制大学へと移行した翌年の1953(昭和28)年秋に吉本直之作詞、横沢寛作曲で誕生しました。

学生歌誕生秘話

北海学園大学新聞の創刊号(1952(昭和27)年10月18日発行)が学生歌を募集。応募多数の中から選ばれたのは、作詞吉本直之(当時経済学部2年・1956年卒業第3期)、作曲横澤寛(当時経済学部1年・1957年卒業第4期)によるものでした。
吉本さんは、卒業間もない頃、次のように話しています。
「当時、我が校には学歌がありませんでした。そんな時学生歌の募集があり、友人たちが私に「作れ、作れ」と言ってきました。その気になって書き出したのが、2年生の10月末、底冷えのする寒い季節でした。書き始めたものの思うように進まず、連日構想を練り検討を重ねる日々が続き、結局書き上げたのは、数日後の明け方だと記憶しています。」
以後、学生歌は、学位記授与式、入学式、同窓会総会等大学の節目節目で色あせることなく今日まで歌い継がれています。

新学生歌

新学生歌を聴く再生停止

作詞 吉沼 史祝(経済学部第3期卒業)
作曲 彩木 雅夫(経済学部第3期卒業)

新学生歌誕生

新学生歌「北の都に」は、1986(昭和61)年秋、北海学園創基百周年、北海学園大学創立35周年を記念して制作されました。
学生歌が一曲のみであることから、周年記念として、新しい学生歌を作ろうという話が、経済学部1期、2期、3期の卒業生から出たことがきっかけとなりました。
作詞を在学生・同窓生から募集し、翌1987(昭和62)年、応募作10数点の中から、吉沼史祝さん(1956(昭和31)年卒業・経3期)の作品が選ばれ、作曲は日本を代表する作曲家、彩木雅夫氏(1956(昭和31)年卒業・経3期)に託され、完成した新学生歌は大学に寄贈されました。
吉沼さんは、当時の様子を次のように話しています。
「同期会出席のため、札幌定山渓を訪れた時(1986年10月4日)上映された大学の広報ビデオ「大いなる学園」に感動しました。夜空には本学のシンボルである星が、キラキラ輝いていました。翌日、帰りの千歳空港には東京では滅多に見ることができない夜空がありました。羽田へと向かう飛行機の中で手帳に書き並べたのが新学生歌です。北の雄としてますます光り輝いてほしいと、願いを込めたつもりです。」

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